代償の知恵

その犬は小さい頃から人の言葉を解した。

 

単語ではなく文で、それもその国の細かい音韻体系を完璧に理解し、抽象的な概念も網羅していた。

 

その犬は右耳の頂点が欠けているのが特徴のシベリアンハスキーだった。

悪質なブリーダーの元で生まれた彼は、決して満足のできない時期を乗り越え、回りまわって現在の飼い主の元で暮らしていた。

 

飼い主は70代の男。特別心優しいわけではなかったが、過酷な生まれの犬は彼を救世主のように思い、感謝していた。

男が喜ぶと判断したことはどんなことでも実行に移した。

店のソーセージを持ってきたときはさすがに叱られたが。

 

犬は、男に飼われてから一度も声を上げたことがなかった。

己の調音器官が人間の言葉を発するには不向きであり、男に自分の意思を事細かに伝えられないもどかしさに耐えられなかったからだ。

幼い子頃に様々な場所を回った経験もあり、自身の威嚇の限界は自身が一番よくわかっていた。

 

犬は何も求めなかった。子孫を残すことも要求せず、遊び道具はボロボロのボール一つだけだった。

男は何度か犬に玩具を買い与えたが、犬がそれを拒否した。

正確には、新しい玩具を男に使ってほしかっただけなのだが、複雑な親切心を理解しきれないのはこの犬も同じであった。

ただ男の横を歩くことが何よりも誇らしく、至福であった。

 

ある日、男が犬の目の前で車に撥ねられた。

突然いなくなった男に驚いていたが、犬はすぐに路肩に吹き飛んだ男の元に駆け寄り、血の流れ続ける顔を舐めた。

男は打ちどころが悪かったのか即死だった。

犬が初めてその場で発した鳴き声は男には聞こえていなかったのだ。

「死んでほしくない」を意味する言葉を発した犬は己の獣の声に愕然としながらも、周りに助けを求めて走った。

 

必死に状況を説明する犬を皆は狂犬と勘違いし、鬱陶しそうな顔をして逃げていく。

人々は猛スピードで男を撥ねた人物が車ごと池に突っ込んでいるのを発見し、救助していた。

主人を殺した人物に対し、一人の老人が「かわいそうに」と呟いたことをこの犬は生涯忘れることはなかった。

 

全てを呪った。