頼むから生きててくれ

 

どうも、ショックが大きすぎて文章に起こすことしかできません、角田です。

 

今日はちょっとアマちゃんとメメちゃんの登場は控えてもらっています。

 

というのも、僕の友達が交通事故に遭っていたことが判明ました。

 

自転車で車に撥ねられたようで、かなりの後遺症が残ってしまっているようです。

中学の友達だったので、今では年に一回会ってるくらいの仲だったのですが、久しぶりに連絡が来たと思ったら事故に遭ったと連絡があり、今はリハビリの毎日だそうです。

 

タイトルで誤解された方がいるかもしれませんが、その友達は生きています。

安心してください。

 

その友達は中学の時から非常に優秀で、大学卒業後は医療従事者として働いていました。

僕には決して歩むことのできない人生だなぁと尊敬しつつ、つかず離れずという関係が長く続いていました。

 

そんな友達が、今や日々検査やリハビリに追われてストレスと溜めて生活を送ってることを知って本当にショックでした。

何でしょうね。人生って、変えようと思う方向にはなかなか変わらないクセに、別の方向にはあっけなく変わってしまうものなんだと改めて認識させられた感じです。

 

 

 

まぁそれもショックだったんですが、僕が一番ショックだったのがそれを今日知ったという事実です。

 

どういうことかと言いますと、実はその友達が事故にあったのは去年の8月末だったのです。

なので、友達はほぼ一年入院していて、もうすぐ退院するタイミングで僕が現状を知ったのです。

いや、言えや。

 

 

あ、僕がショックを受けたのは友達にその事実をタイムリーに聞けなかったからではありません。

連絡がなければそれを知ることができなかったということを実感してしまいました。

 

以前、僕は以下のような記事を書きました。

rightuncle.hatenablog.com

 

 

これは、「今僕が死んだとしたら、恋人や友人にはどうやってその事実が伝わるのだろう」ということを考えたものだったのですが、結局つながりの薄い人達には全然伝わらないのではないかという結論でした。

そして、この友人の事故でこれが証明されてしまいました。

 

今回は幸いにも友人は生きていて、遅いながらも連絡をくれたことで僕は知ることができました。

でも、もしここで友人が亡くなっていたら、僕が知るのはもっと後、もしかしたら以後知る機会がなかったかもしれません。

 

この友人との付き合いは家族ぐるみでもなければ共通の友人がいるわけでもありません。

完全に僕とその友人だけの繋がりだったのです。

 

曖昧で儚い、気まぐれな関係だということが分かると同時に、他の友人のことが気になってきました。

 

 

僕たちは自身の身にこういう出来事がないと真に知ることができないかもしれません。

僕は今日それを知りました。

 

こうしてコロナウイルスが蔓延して明日は我が身となった状況ですら、どこか自分は大丈夫だろうといった奇妙な能天気が頭の片隅にでもあったのでしょう。

でも、実際それは自分の中に根拠のない安心感があるだけで、現実の危険性は何も変わりません。

もしかしたら僕も明日、いやこの瞬間にも死ぬ可能性があります。

それは生きていれば全員同じです。確実に明日を迎えられる人なんていません。

 

突然心臓麻痺になるかもしれない、交通事故に遭うかもしれない、一瞬の気の迷いで自殺してしまうかもしれない。

世の中は僕たちが視認できる何千倍も死の危険があります。

 

 

なので、今回僕がタイトルにしたものはその友人だけに向けたものではありません。

家族に、友人に、恋人に、そしてこれを読んでいる読者の方にも言いたい。

 

頼むから生きててくれ。

 

何でもないつまらん日常を生きて、余力があったらたまに楽しくして、わがままを言うならずっと元気でいてくれ。

 

 

以上。