どうも、角田です。
大学生の時から人と「遊ぶ」っていうことが分からなくなりました。
小学校の時に遊ぶと言えば、友人の家に行ってゲームしたり外で缶蹴りしたりだったのですが、大学になってからは「遊ぶ」という言葉の内容は「友人と食事に行くこと」がほとんどを占めるようになってしまいました。
これは散々悩まされてきましたね。
僕たちは今カラオケに行っていて、これは遊んでいると認識してもいい。
でも、毎回カラオケに行くわけじゃない。次遊ぶのはきっとどこかのラーメン屋だ。
僕たちは一体いつから遊ばなくなったのか。
ただ、社会人になって上司とかと食事に行ったりする経験が多くなって気づきました。
「食事に行くことが『遊ぶ』ってことではないな」って再認識しました。
僕らは単純に感性に発想がついていかなくなってしまっただけなのでした。
昔のようにゲームも缶蹴りもできます。
しかし、昔のように楽しめなくなってしまった。
「遊ばなくなった」のではなく「遊べなくなった」というのが正しいかもしれません。
感性の成長と共に楽しめることが減っていき、「友人と食事をすること」が残った感じでしょうか。
僕は自身の感性の退行を願います。
昔のように、明日のことなんて考えず、他人の顔色なんて窺わず、自分の好きなことだけをして何も生産せずに生きていきたいものです。
しかし、それも簡単にはいかないのが現実。
一方で僕は感性が発達しきれていない大人を嫌います。
別に僕の感性が至上のものだとは思っていませんが、そんな僕ですらひどい嫌悪感に襲われます。
いつからこうなってしまったんでしょうか。
僕は昔思い描いていた「嫌な大人」になろうとしているのかもしれません。
嫌な自分って、理想の自分以上に具体的に想像できる分寄って行ってしまうんでしょうね。
そんなわけで、コロナ禍で自分を見つめなおして病んでいる諸君。
しばらく自分を見るのをやめよう。
人に会って、その人だけを見ていなさい。
以上。