※これらは全て持論です。
我らが日本が正義と言う武器を法に奉還してから数百年経ちました。
巷では正義のレプリカを振りかざしている輩が後を絶ちません。
本当に、嫌気がさします。
そもそも、正義とは何をするために存在しているのですか?
正義がなければできないことをするとき、大方は人を傷つけるときに用いられるものでないかと考えています。
いじめっ子がヒーローに退治されている姿も、事情を知らない人が見たらヒーローがいじめているように見えることでしょう。
本来の行動を客観的に見ればその程度のことなのです。
正義の持つ効果は大きく二つ。
他者に正当性を表すことと、自身の行動に正当性があると納得させること。
本来、「人を傷つける」という行為はリスクが大きいことです。
それは周りから別の正義で攻撃される可能性があり、自身にも罪悪感によって精神的な負荷がかかります。
しかし、正義を持つことで周りに咎められることを防ぎ、また他者を傷つけて湧く罪悪感を軽減することができます。
私たちは普段から人を傷つけたくて仕方がありません。
子供が虫を惨殺したり、ゲーム中で迷いなく民間人を攻撃することなんかも、我々の根源的な残虐な心を表しているのではないでしょうか。
私たちが恐れているのは自分が傷つくことです。
他者を傷つける快楽と自分が傷つくリスクを天秤にかけた結果として人を傷つけなくなっただけなのです。
そういった集団の心理でかろうじて社会の治安は守られていると考えています。
しかし、正義を持つことで自分が傷つかなくなります。
人を傷つけるデメリットを軽減できるため、その瞬間天秤が逆に振れます。
「正義の反対はまた違う正義だ」
なんて言葉が流行りましたが、それはそうでしょう。
弓と戦っているのはまた違う弓なんです。
武器が武器と向かい合っているのは当然のことでしょう。
反対、と言っていますが、これは何を軸にしているかで見方は大きく変わります。
宮本武蔵と佐々木小次郎が対極にあるとしても、佐々木小次郎と、小次郎の武器である物干し竿は「使用者」と「武器」という軸でまた対極にあるものなのです。
私が言いたいのは、「正義に対抗しているのはまた違った正義だが、使用者は全員悪人である」ということです。
最初に言った通り、正義は現在法律が握っています。
それに似た武器を勝手に複製し、人を傷つけている者を悪人と呼ばずになんと呼びましょう。
少し前に誹謗中傷が原因で自殺された方がいらっしゃいましたね。
すぐに話題に上がり、「誹謗中傷はやめよう」みたいな流れを見たのですが、実際それも誹謗中傷した人を懲らしめて世の中に貢献した気になっている人が散見されました。
完全に外野であった私からは、最初に無邪気な悪人が出てきて、次に正義を振りかざした、人を傷つけたくて仕方のない悪人が登場した地獄絵図に見えました。
それで世が平穏になるなら2000年代でこんなことは起こっていないでしょう。
ただ、こんなことを言っている私だって正義のレプリカを持ちます。
今の世の中、これを持たない人はただ斬り捨てられるだけですから。
戦場で一人だけ銃を捨てたとして、何が変わるのでしょうか。
全員が持っているからこそ、自身を守るためにも正義のレプリカは必要です。
場合によっては振らなければならない日も来るでしょう。
しかし、だからといってそれが本物の正義であるとは思わない方がいいです。
私たちの持っている正義のレプリカには、他者全員を納得させる効果はありません。
所詮、人を傷つけるために生まれた「ただの武器」なのです。
しかし、武器を握った途端に私たちは悪人となります。
それだけは忘れないでください。
罪悪感は自分を止めてくれるシステムの一つなのです。
今回言いたいことをまとめます。
・正義はできる限り握るな。
・正義を振るった場合は自分が悪人であることを自覚しろ。
です。
これだけのために長々と申し訳ありませんでした。
以上。