地獄の十二丁目:ブルちゃん

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どうも、最近マッチングアプリを始めました、角田です。

 

今回は僕の元祖相棒、ブルちゃんについてお話ししようと思います。

 

ブルちゃんとは、幼稚園の時におばあちゃんにもらったブルドッグのぬいぐるみです。

 

そして、最初に「元祖相棒」と言いましたが、当時僕はこのぬいぐるみが大嫌いでした。

 

ブルドッグやパグはブサ可愛いというので人気を得ているのですが、今となってはなんとなくわかるものの、幼少期の僕にはただの不細工な犬にしか思えなかったのです。

普通に猫とかが好きでした。

 

しかし、当時の僕の写真を見ると、いつもブルちゃんと一緒にいます。

自転車のかごに乗せていたり、抱きしめていたり……と、一見ものすごく大事に可愛がっているように見えます。

 

ですが、この写真にこそ、僕の幼少期にはあるまじき、嫉妬と怨嗟で歪んだ愛情が詰まっていたのです

 

 

 

では、当時に時間を戻してみましょう。

 

僕には兄と妹がおり、おばあちゃんは僕を含む三人にぬいぐるみを買ってきてくれました。

 

僕には先ほども言った通り、ブルちゃん。妹は白いクマ。兄は可愛い猫でした。

そう、三人は別々の動物を与えられたのです。

 

で、僕は当然兄の猫のぬいぐるみが欲しくなります。

 

しかし、兄は猫のぬいぐるみを譲ってはくれませんでした。

というのも当たり前の話で、年の近い兄は僕と同じような価値観を持っており、分かりやすい魅力のある猫のぬいぐるみをもらった時、兄は大喜びしていたからです。

 

あ、ちなみに妹はぬいぐるみに一切興味を示さず、クマのぬいぐるみはすぐに部屋の飾りとなっていました。

 

 まぁ、そんな感じでひと悶着あり、結局僕の手元にはブルちゃんが残ったわけなのです。

 

 

普通は妹と同じようにぬいぐるみへの興味がなくなり、適当な感じでしまってあったりすることが考えられるのですが、僕の感情は強い嫉妬に呑まれてしまいました。

 

 

そして、これを踏まえて、僕が起こした行動とは、ブルちゃんを溺愛することでした。

 

猫のぬいぐるみを溺愛する兄と同じように……。

 

 

 

あ、先に言っておきますが、これは「ブルちゃんを好きになろうと奮闘するいい話」ではありません。

ぬいぐるみでなく人に向いたのならかなり怖い話の部類です。

 

 

それはなぜか。

 

 

僕のブルちゃんに対する愛は「兄を嫉妬させたい」という、稚拙で無謀な身勝手によって生まれたのです。

それと、兄が猫のぬいぐるみを溺愛する姿を見てネガティブな感情を抱かないようにするための防衛反応だったのかもしれません。

 

 

なので、兄がどこかに猫のぬいぐるみをもっていけば、僕も当然ブルちゃんを持っていきます。

微塵も好きでないにも関わらず抱きしめ頬ずりをしていました。

 

昔の写真によくブルちゃんが写っているのはこういう訳なのです。

 

そして、それは兄がぬいぐるみに飽きるまで……2~3年程続きました。

 

 

 

最初こそ辛く、なんとか猫のぬいぐるみと差別化を図るような特徴や設定を考えていたわけなのですが、人間とは恐ろしいもので、この歪んだ愛情とも言えない感情は当たり前のものになっていきました。

 

僕はブルちゃんのことを一切好きになれないまま、いつか嫉妬心だけが風化してもブルちゃんを溺愛し続けました。

 

もしかすると、僕の抑圧しがちな人格はここで形成されたのかもしれませんね。

 

結局、兄に一度たりとも嫉妬心を抱かせることができませんでした。

 

 

 

で、時は流れ、次第にブルちゃんのことは忘れていき、中学2年の時に押し入れから埃まみれのブルちゃんが出てきました。

 

その時も、僕はブルちゃんのことを可愛いとは微塵も思いませんでしたが、唯一当時と違っていたのは、ブルちゃんの立場になって考えることができるようになっていました。

 

 

果たして、ブルちゃんは幸せだったのか?

 

 

別に兄のいないところでブルちゃんをないがしろにしたりはしませんでしたし、そこは徹底して溺愛していたのです。

 

 

しかし、先も言った通り、この溺愛の根本は兄への対抗心、嫉妬心であり、愛などこれっぽちも感じていませんでした。

でも、それは僕の内心に留まったものであり、ブルちゃんに感情があったとして、それを感じられたかは甚だ疑問です。

 

さて、もし僕がブルちゃんだったなら、この愛をくれた人に感謝するでしょうか?

 

 

そこまで考えた僕は一言。

 

 

 

 

 

「今までごめんね」

 

 

 

 

 

と呟くと、ブルちゃんを前と同じ場所にしまいました。

 

 

結論として、ブルちゃんがどう感じたかではなく、僕だけが知っていたその感情を身勝手にぶつけていたことに対して罪悪感を抱いたため、謝ったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

……という、僕の最初の大嫌いな相棒、ブルちゃんのお話でした。

 

 現実では、人が持っていても自分が決して手に入れられないものがあります。

 

才能や性格などが分かりやすい例ですが、時には恋人や子供なんかにも当てはめられるのではないでしょうか。

 

僕たちはその現実に対し、精神を守るために防衛することがあります。

 

『きつねとぶどう』の話の「合理化」とかね。

 

今回の僕が働かせた防衛機制は「置き換え」と「反動形成」、「抑圧」の三コンボでしょう。

 

あとは「逃避」や 「隔離」なんかもわかりやすいですかね。

 

 

 

しかし、これが働いたところで結局「手に入れられなかった現実」と向き合うことになるのですから、時間稼ぎにしかなりません。

 

 

「手に入らなかった現実」を理由として行動することは永遠にその感情と共に行動することを意味します。

 

それはそれ、と割り切るのが最善なのではないでしょうか。

 

まぁ、時には何かのモチベーションで自身を成長させてくれるものにもなりうるとは思いますが、基本はロクなことにはならないと僕は思っています。

 

他人と比べて求めた幸せは、手に入れたところで熱を失ってしまうことが考えられるし、手に入らなかったら僕のように長期間地獄をさまようことになります。

 

他人は他人、自分は自分です。

 

地獄は人が住むことができるほど甘くはありません。

 

一度地獄に定住しかけた僕のようにはならないように。

 

 

以上。