どうも、皆さん親切にしていますか、角田です。
今回はアマちゃんはいません。
僕は小さな時に「人に親切にしなさい」と教えられて育ちました。
恐らく、大半の人は教わってきたのではないでしょうか。
しかし、最近はこう思うのです。
「親切は素晴らしいが、親切でないことは悪いことではない」
例えば……駅のホームで倒れた人がいるとしましょう。
周りには多くの人、その中にはあなたもいます。
倒れた人は貧血か、はたまた重大な病気か、それは分かりません。
第一発見者(あなた以外の人)はその人を一瞥し、急いでホームから去ってしまいました。
倒れた人の一番近くにいる人あなたです。
あなたはすぐに救急車を呼び、倒れた人は搬送されていきました。
ひとまずこの事件は解決です。
その場にいたあなたは第一発見者に対して何を思うでしょうか。
もしかしたら何も思わないかもしれませんが、昔の僕ならばこう思います。
「なんて薄情な奴なんだ」と。
「人の命よりも、自分の仕事が大切なのか」と。
では、視点を変えてみましょう。
あなたはある朝、電車に乗っていて今までにない腹痛に襲われました。
全ての感覚が腹部に集まり、今にもトイレに駆け込みたい気分です。
電車が途中の駅で止まりました。
あなたはトイレに駆け込むため、目的地でもないのに電車を降りました。
人が何やら騒いでいますがそんなことを気にしている余裕はありません、急いで怪談を降りてトイレへ駆け込み、事なきを得ました。
会社へ遅刻の電話を入れ、ホームに戻ってみると数人があなたのことを怪訝な顔をしてチラチラと見ていました。
……いかがでしょうか。
今回の例は条件を色々と限定しているので「このケースは仕方がない」とか、「この場合でもこうすべき」という人それぞれの答えが見つかります。
しかし、現実はどうでしょうか。
あなたが第一発見者でない場合、つまり最初の立場にいた場合はその人がどんな理由を持ってホームから離れて行ったかは分からないはずです。
そこで一体何を思うか。
それによってあなたの今後の人の見方が変わってくる、もしくは他人をどのように捉えているかが分かってきます。
思うことは恐らく大きく分けて二つ。
「その人が倒れた人を見捨てた」と見る場合と、「なにか大変な事情があって離れた」と見る場合です。
まずここで考えてほしいのは、「目の前に倒れている人がいる場合に大した理由もなく立ち去る人がいるかどうか」です。
ここで「そんな人はいないだろう」と考える人は恐らく「なにか大変な事情があって離れたんだろう」と思う……と、そう簡単には結びつきません。
僕は、人が他人を見るときは、分かりやすいステレオタイプの架空の人を当てはめる傾向があると思っています。
例えば、「8歳の子供が描きそうな手紙を書いてみてください」と言われたとき、短い文で、考えられるだけ幼稚な表現を使って、できるだけ下手な字で書こうとするはずです。
しかし、現実の8歳の子供というのは我々が思っている以上に子供らしくはなく、自分が想像して書いた手紙と実際に8歳の子供に書いてもらった手紙では明らかな相違があり、恐らくは自分が書いた手紙の方が幼稚であると思います。
これは僕らの中の「8歳の子供」が簡単に考えられるステレオタイプとなっているからであり、実際の8歳の子供の実情などはどうでもよいのです。
では、「倒れた人を見た人がその場を急いで離れて行った」光景を見たあなたはその人をどんな人だと思うのでしょうか。
「『人に親切にしなさい』と教わらなかった非情な奴」ですかね。
とにかく、「不親切な奴」という引き出しから出された最低の人格を当てはめるような感じがします。
そうなれば後は攻撃することは簡単です。
僕が今回言いたいのは、「親切にしなかった人にも事情があったんじゃないの?」ってことです。
これは具体的な事件の例を持って言ってるわけではないので、その人を擁護しているわけではありません。
ただ、その人の理由も分からず攻撃するのはおかしくないですかって言いたいんですよ。
不平不満はあることでしょう。
多少悪く言ってしまう気持ちも分かります。
ただ、「あいつは悪いやつだから」と決めつけ、粘着したり実害を与えることは是とされないのではないでしょうか。
今回のこの根拠のない偏見だらけの駄文は、僕の中の「最低な人」のステレオタイプに向けて発信しているものになります。
少しでも、この引き出しを開けないで済むよう、視野を広げていきたいですね。
人に親切にすることは素晴らしい。
されど親切でない人が悪人であるないわけではない。
そんな考え方もあるんじゃないでしょうか。
以上。