お前はすげぇよ

 

とある文章を読んでこの記事を書きます。

正直これは読まなくてもいいです。

 

これから書くことは全て自己満足である上、自身に沸いた感情の記録をその人に届くように発信することもどこか自身を良く見せようとする卑劣な心が見えてしまうからです。

 

 

僕の友人の中には尊敬している人がいます。

「尊敬できる部分がなければ友人にはなれない」ということを前提とし、全ての友人に尊敬を感じていると仮定しても彼への尊敬は文字通り群を抜くものです。

 

彼は僕の持っていないものをたくさん持っているんです。頭の回転の速度やら思考の論理性は出会った中で随一、対人関係も良好で誰に聞いても「面白い」と言われるセンスだがなんだか分からん天性のものも持ち合わせているのです。

正直彼に会って数か月過ごして挫折を感じたこともあります。

 

まぁ、それはいいとして。

彼のセンスや頭の良さもそうなのですが、一番尊敬に値する能力が「人を信じられること」にあります。

これは子供騙しに引っ掛かるような「誰でも信じる人」とはわけが違います。

 

例えて言うなら、ここに複数の石橋があったとしましょう。

半数の橋は渡ると崩れます。

誰でも信じる人とは、全ての橋が崩れないと思っている人のことです。

自身の基準に従い、確認をすることなく渡っていく人。

この問いが一回ならば確率で渡りきることができますが、複数回問われたならばいつか落ちることは想像に難くありません。

 

しかし、彼はきちんと選んで渡ることができます。

きれいな外見をしていても崩れる橋はあるでしょう、どうして渡ることができるのか。

どうやって判断しているのか、石橋を叩き続ける僕には分かりませんが、彼は渡り切っていくのです。

 

 

人の心はいくら考えても分からん。

その考えは今でも揺らぐことがありません。

どれだけいい顔してても裏で悪口を言う人なんかこの世の中ごまんといることでしょう。

しかしその文章を読んで、少しだけ変わった部分もあったのです。

 

会社の上司で、誰に対しても冷たく横暴な態度の人がいます。

僕は正直その人のことは好きではありません。

しかし、思い返してみるとその人は会議で必要な資料を率先して作り、ダメだと突き返されても一から一生懸命作り直していました。

土砂降りの日には傘を忘れた同期に傘を貸し、人のミスもなんだかんだ言いながらカバーしていたりと、いいところも沢山ありました。

 

人は人の悪い部分に注目し、それを本心だと思い込む。

これは僕の持論でしたが、僕自身も呑まれてしまっていたようです。

 

他人のことは単純に捉えてはいけない。

分かっていたつもりでしたが、ただその言葉の意味を理解していただけでした。

 

橋の傷を見て渡るのをやめようと、消去法で選んでいた僕が間違いだったのです。

彼はそれに気づかせてくれました。

恩返しなんて言葉を忘れて久しくなりましたが、彼の文章を読んで今一度これまで感じた恩に報いたいと心の底から思うことができました。

 

一人の友人の書いた文章で単純な僕が心動かされた。

ただそれだけの出来事ですが、彼には非常に感謝しています。

 

僕には橋を選ぶことができないので他の人からしたら馬鹿に見えるかもしれません。

ただ、自分に近い橋を叩くのはやめよう、とそういう決心がついたわけです。

 

最後に友人に一言。

 

お前はすげぇよ。

お前が飛躍していくのを下から見てることには何も感じなくなってたけど、一回くらい俺も並んでみたいともう一度思った。

 

それだけです。

 

以上