学生最後の日

 

物心がついているのかすらも曖昧なまま、時の流れに従っていつの間にかなっていた「学生」という立場。

小学校、中学校、高校と上がっていくにつれて教育の必要性が薄れ、代わりに個々の能力の暫定的な指標となる学問を詰め込むことに躍起になる。

しかし、いつからか「能力の程度を示す点数の獲得」は手段から目的に変わり、点数を取ることに学生生活の大半を費やすことになった。

高校卒業後、流行に従ってモラトリアムを行使して大学生となり、与えられた自由を喜んだのもつかの間。すべきことも分からず困惑し、無駄に浪費した。

 

それら全てが終わろうとしている。

 

人生の殆どを学生として生きてきた故に、その時間は永遠に続くような気がしていた。

この終わりは自身で勝ち取ったものであるにも関わらず、自分以外の誰かに押し付けられた、もしくは学生という身分を奪われたような感覚に陥る。

住んでいた家が突然燃え上がったかのような、もう戻ることのできない喪失感と未来に向けた不安に侵され、いやだいやだと言いながら歩を進める自分を想像して頭を抱えた。

 

 

 

「明日から頑張る」というのは傲慢な者が使う言葉だ。

無条件に明日がやってくると思っていて、その上明日の自分に全てを押し付ける無責任な言葉だ。

 

同時に、「今日頑張った者にしか明日はやってこない」という言葉もある。

頑張り始めた時のみ精神の時間は流れ始めるのであり、すべきことを後回しにしていても結局それを処理するのは時が止まった「今日の自分」なのだ。

 

ただ、これは所詮机上の空論である。

「今日の自分」が永遠に変わらないかと言われればそうではない。

立場や境遇が何らかによって変えられたとき、精神の時間が強制的に動かされるときがある。

 

例えばレポートの締め切り。

締め切りまで残り一か月と残り三時間で、同じ心境でいられる者はいないのではないだろうか。三時間前に精神の時間が動き出し、頑張り出す者だっている。

 

だからこそ。僕は今一度「明日から頑張る」という言葉を使おうと思う。

 強制的に時間が動き出すまでの僅かな間だけでも、僕は「今日の自分」でいたい。

 

 

 

 

もうすぐ学生生活が終わる。

 

僕は最後まで、自分のしたいことをしようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おちんちんびろーん

 

 

 

 

以上。